はじめに
児童文学のレポートを作成しなければ、レポート期限もせまってきている・・・(^^;)
教育学のレポートの中でも、教育哲学や教育社会学、保育学などは、大学の時に、勉強したので、その蓄積で、何とか、書きやすかったが、
児童文学は、初めてなので、・・・・・やっぱり、しっかり勉強しないとね。
参考文献の中の、童話作家「新美南吉」の『小さい太郎の悲しみ』という作品が紹介されていた。なかなか、よかったので、ここでも、紹介します。

新見南吉の『小さい太郎の悲しみ』を読んで
一人っ子の小さい太郎がカブト虫をつかまえて一人で遊んでいたが、つまらなくなって金平ちゃんのうちに行く。
金平ちゃんは腹痛で寝ていて遊べないので、恭一君のうちに行く。恭一君はきのう三河の親類のうちにもらわれていって、うちにいない。
そこで太郎は安雄さんちのうちに行く。安雄さんは「もう青年学校にいっているような大きな人」だが、太郎さんとよく遊んでくれ、木の葉、草の葉を笛にして鳴らすことができる。
安雄さんのうちは車大工で太郎が行くと、安雄さんは「仕事着をきて、黒い前垂れをかけて」、「小父さんと二人で、仕事場の隅の砥石でかんなの刃を研いで」いる。
太郎が呼びかけると、小父さんが「つっぱなすように」いう。
「うちの安雄はな、もう今日から、一人前の大人になったでな、子どもとは遊ばうんでな、子供は子供と遊ぶがええぞや」。そして、この話は次のようにむすばれる。
小さい太郎の胸にふかい悲しみがわきあがりました。
安雄さんはもう小さい太郎のそばに帰っては来ないのです。もう一緒に遊ぶことはないのです。
お腹が痛いなら明日になればなおるでしょう。三河にもらわれていったって、いつかまた帰って来ることもあるでしょう。しかし「大人の世界に入った人がもう子供の世界に帰って来ることはないのです。」
小さい太郎にの胸には悲しみが空のようにひろくふかくうつろにひろがりました。
或る悲しみは泣くことができます。泣いて消すことができます。
しかし、或る悲しみは泣くことができません。泣いたって、どうしたって消すことはできないのです。いま、小さい太郎の胸にひろがった悲しみは泣くことのできない悲しみでした。
そこで小さい太郎は、西の山の上にひとりきり、ぽかんとある、ふちの赤い雲を、まぶしいものを見るように、眉を少ししかめながら長い間見ているだけでした。かぶと虫がいつか指からするぬけて、逃げてしまったのにも気づかないで--。
誰もが子どもの頃の無力さを感じながら生きていた…
幼い頃、まだまだ、自分の力のなさや、どうしようもないことに、対して・・・
ただ、哀しかったことを、思い出すというのか、その哀しさを、感じるというのかーーー
幼い頃のことを、思い出し、辿りながら、いると・・・
幼い頃というのは、案外、自分ひとりの「ちから」で、
「何とかする」ということを、していたように思う。
純粋に、まだ、人に頼るということすら、知らない状態で・・・。
哀しかったり、我慢したり・・・。
自分のうちの「ちから」を、無意識に信じていたのだろ…
その、いじらしい自分を「大事」に、思ってあげたい!
その、いじらしい自分の「ちから」を、また信じたいし、その、いじらしい自分の「ちから」を借りて、生きていきたいとも思う。
その、いじらしい「ちから」は、大いなるものと繋がっているように思う。自分の「ちから」を信じきること。その信じる力はものすごく大きなものだ。
おわりに
幼い子どもには、大きな力が潜んでいる。
喜びや悲しみ、やりきれなさなど、さまざまなことを経験していく中で、小さい頃ほど、自分の内側で処理する。
まだ、うまく表現もできずに、また表現していいものかもわからずに、自分の中にいろんな思いを感じている。そして、人に相談せずに自分の力で自分の判断で、物事を処理していく。
すごいと思う。その未熟なままに、学校で他の子どもたちのとの関わり、先生たちの関わりやっていってる。
小学生の頃は、自分の世界というのが現実の世界の他にあったように思う。
幼かった自分を労り抱きしめてあげたいと思う。イメージでいいから、そういうことを意識してすることで幼かった自分が癒されていくんだろう。
また、幼い子どもたちの味方になれるように、心を純粋にクリアにしておきたい。
