昨夜は久しぶりに眠れなかった。。。
目が見えなくなる恐怖と、どんなにあがいても自分は自分であって、「独り」であることが強烈に襲ってきた。
やはり、夜、夜中はまずいね。。。
自分の場合、暗いと気持ちまで暗く狭くなりやすいみたい。。。
例えば、「痛み」なんだけど、痛みというのは、どんなにあがいても自分でしか感じられないものでしょう?
他者の痛みは、その痛みを共感することができたとしても、自分の痛みとは違うわけじゃない?
「いのち」のつながりはあるのだけれども、決して自分は自分以外にはなれなくて、自分と他には、必ず一線がある。。。
その「独り」への理解があるからこそ、はじめて「つながる」意味がわかるような気がする。
誰もが、その「独り」を生きているということ事実に、敬意を表することができるのではないだろうか。。。
「個」は変わりなく存在する。。。
それは、魂のレベルでもずっと変わりない。
いつまでたっても自分は自分でしかない。
その自分の魂が、今も過去も未来もずっと存在するんだ。。。
その永久。。。
それにびびる気がする。。。
目が見えなくなる恐怖は、平成11年の秋旅先の宿舎で最初に起きた。
心身共に癒す、療養施設で4人の相部屋。
夜、小さな豆電球がなく、真っ暗にして寝ようということになった。
別に真っ暗が怖いなどと思ってもになかったので、平気で寝ることに。。
しかし、それが、電気を消してしばらくしてから、目を開けてもつぶっても真っ暗で。。。
自分が目を開けているのかつぶっているのかもわからなくなり。。。
それから、白いうようよしたものが見えてきた。
それは、目を開けても、つぶっても見えた。
その白いうようよしたものが、ぐるぐるに回って、すごいんだよねー
それで、たまらなくなりベッドの脇の蛍光灯をつけたまま、眠ることにした。
電気がついていれば、大丈夫だったから。。
でも、その後、暗いとその白いもやもやしたものが見えるようになった。
見ないようにすれば見なくて済むけど。。。(空気中に目をやると見える。現実にあるものをはっきり見ていれば見えない。目をつぶったときは、目で見ないようにする。見ることに意識を向けないと大丈夫)
それが、真っ暗だと難しいんだよね。。。
多分空気中にあるプラーナがキラキラ光ってるんではないかと思っているが。。。
それって、目をつぶっても見えるんだねぇ。。。?^^;
よくわからないけど。。。
そんなことがあってから、時々、暗闇の恐怖と見えない恐怖を感じることがはじまった。
目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、その他のたくさんの障碍がある人たちも、この世で生きている。
自分らしく生きている人たちもたくさんいる。
思い通りに行かない人生に、感謝し満足して生きること。。
そのことを思わずにはいられない。
人生で起きることは、自分に必要なことしか、与えられないと言われている。
その与えられたものを、感謝して大事に扱うしかないんだね。。。
それを、「わかったつもり」ではなく、「わかる」必要がある。
でも、「わかる」ことと「わからない」ことは同時にやってくる。
わかったつもりでいると、いざ自分に何か降りかかってくるとことでわかっていなかったことを教えてもらうことになる。
他者のことなら、落ち着いて観えるので、冷静な判断が下せる。
が、しかし、自分のことになるとそうではないというのは、「わかったつもり」だからだ。
「わかる」と、それと同時に「わからない」ことがあるということが「わかる」。
ソクラテスの「無知の知」。
知らないことを知るんだ。
だから、人生で起きてくることに「良い悪い」の判断をするのでなく、
そのまま、ありのままを大事することが、何より重要なんだね。
何が書きたいのか自分でもよくわからないけど、昨日夜中にはそんなことを考えていた。
弘法大師様や神様・仏様たちに「守られ・愛され・育まれて」いることを思い出し、眠ることに。。。
そうすると、不思議と恐怖は消え、与えられた「いのち」なんだし、与えられることの意味は、自分にはわからない。
でも、そのままに生きていけばいいのだと思った。
哲学する人や誰もが「死」への恐怖を感じる。
そういうことにつながることなのだと思う。
こういうことを感じさせてもらうことで、他者の心の痛みは、痛みのままに少しでも安らかにと祈るだけしかできないのだと思った。
やはり、自分は自分の信じた生き方を貫くのみだ。
それしかないね。。。
感謝☆(^^)
