クローバー♪さんから頂いたメッセージについて、考えたいと思います
自分のウチのから、「喜び」「感謝」「平和」がこみ上げてくる日であっても・・・
「生きづらさ」を感じるかな・・・?
生きるということは、喜びばかりでなく苦しみもありますよね。その目線で見ると、「生きにくさ」もあり、また「生きやすさ」もあるのが「生きている」ことだととも思うのです。
下の2行は、まったくその通りで、喜びも苦しみも、陽も陰も、光も影も、すべてを含むことが在り、それがやってきます。それが「生きている」ということですよね。

だから、「生きづらい」ということもある。
「生きづらい」ということばかりではないが、「生きづらい」というものも在るということを言いたかったのです。

生きやすさがあるように、生きにくさがあって、その「生きづらい」部分に、大事な「何か」が隠れていることがあるということを感じてるのです。
戻りますが、上の2行について、
自分のウチから、喜びを感じて生きていても、「生きにくさ」は感じます。
人間は完璧ではないので、何でもできる、何でも「良い」ことばかりには、なりませんよね。
自分は自分のまま、「ありのままの自分」であっても、喜びを感じて生きることはできます。
「生きにくさ」や「苦手なこと」「嫌いなこと」などが在るのは、それで仕方ないこと、
それは、在るままに、幸せに生きることができる。
いろんな事がやって来るけれど、そのままで、「何があっても大丈夫」という感じで捉えています。
例えば、不登校の子どもたちの中には、
学校に行きたいが、いけない子がいます。
学校の中で、良いことも悪いこともある、だから、自分だけじゃないし、頑張ろうとか、
やれるはずとか、もっと頑張ったら、生きづらい感じがなくなり、心の底から楽しめるはずとか、
思い、頑張って、頑張って。。。
それでも、ダメで、辛くて辛くて、学校に行けなくなる場合もあります。
そのような子どもたちの、多くは、
いろんなことがわかっているのだけれども、自分だけの力でどうしようもないのです。
心の底から、学校や社会の中で、頑張りたいのです。
けれども、できない。。。
その辛さがわかるでしょうか・・・
「生きにくさ」というのは、
与えられた一つの心身の障がいではないかと、私は捉えています。
障がいは、悪いものではありません。
身体障がいだって、与えられた、大切な個性、その人の性質だと思うのです。
そこに、大切な「何か」が、隠れていると思います。
社会の中で、生きづらい人たちは、社会の中というよりは、例えば、芸術的なことや、一人で創造できることなどの面で、才能が伸ばされることがあります。
だから、社会の中で人の直接の関わりをだけを目指す必要はないのです。
間接的であっても、例えば、その人らしい絵を描くことで、人を癒せるならば、社会の中で、生きづらいけれども、社会と関わりを持つ生き方になるのです。
私が言っているのは、社会と直接的に関わりを持つと“生きづらい”人のことですね。
対人恐怖症や社会不安障がいなどの、心身の障がいは、その人に与えられたものだと思うのです。
その強迫観念は、その人にしかわからないものですが、他人には、わからなくても在るのです。
自分の知らないものを否定するのではなく、自分が知らなくても、在るものは在る。
実際、そのように苦しんでいる人がいるのは事実です。
この大宇宙には、すべてのものがある。意識と無意識、なおかつ、その二つ(意識と無意識)を含む「超無意識」と言えばいいのか・・・、そんな領域そのものが大宇宙といえるのです。
何も減ったり、増えたりしないのです。
そのすべてのものが在るということを、踏まえて、
自分の「こころ」を開き、「喜び」「光」に向けて生きることが大事です。

そして、こころを開き喜びの中で生きるにしても、決してその人に与えられた、性質や個性、ユニークなものは、変化しません。

在るのです。「生きにくさ」も在るままに、「喜び」、「しあわせ」に生きることができます。
それが、変わるということではなく、受け入れるということです。
ありのままの自分を受け入れて、すべてを肯定し、
「喜び」「しあわせ」に生きる。。。
自分に与えられた全てに感謝して、与えられたものを大切に扱い、尊重し、
生きるということが、私が研究の対象にしている、ホリスティックな生き方につながるのだと思っています。

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