
不愉快になると、そのことばかりに囚われてしまう。いつも頭から離れない。氣がつくと不快なことを考えて、自分が怒ってしまうことを正当化している。
余りに囚われ過ぎているので、視点を変えてみようとしたり工夫してみたりしている。とにかくその不快なことばかりを考えている自分にはびっくりする。
例えば、犬の散歩で知人が自分から挨拶をしないということが気に入らない。こちらから挨拶すれば小声で頭を下げることはするが、気持ちよく挨拶を交わせない。何度かこちらから挨拶しているが、感じが悪い。そうすると散歩に行っても絶対に出会いたくないと強く思ってしまって、気持ちよい散歩のはずが気分が悪い。
そのことばかりに囚われて、散歩も楽しくないし、気持ちよく挨拶を交わさない相手が絶対に悪いというような思いがむくむくと現れてくる。
その不快感から逃れようとしても、すぐに頭の中に浮かんできて気分を悪くしている自分がいる。考え方を変えればいいかといろいろ思い巡らしたりしているということは囚われているからだ。
その心の奥には、何なのだろうか…
何に怒っているのか、思い通りにいかないイライラか… 探っていくと自分は正しいという思いが根底にあるような氣がする。自分は間違っていない。絶対に正しい。
そのような感覚を持っているような氣がする。そして正しくない相手を責めたい気持ちが心の中を渦巻いているような感じ。
お互いに気持ちよく挨拶することが絶対に正しいというような考えがあるからだ。
それってどこからくるんだろう?
そのことに氣づくきっかけの一つに母の言動、妹たちの言動があった。私は絶対に悪くないという思いが根底にあるように見える。
そこからの言葉や態度なのだと氣づく。それを見ていると自分もそうなんだとつくづく思う。母や妹たちが悪いと言っている訳ではなく、そういう考え方の癖や生き方の癖が、見えてきて、それと同じものが自分の中にもあるのだと発見できた。
また責める気持ちが強いことも氣づけた。私ではなく”あなた”が悪いと徹底的に責めたい気持ちが心の奥底にへばりついているような感じがする。
それに氣づけてからは、同じようなことが起きたら、意識してそれぞれに正義があるのだから、相手の言動は相手に任せ、責めないように心がけるようにしている。
相手を責めないようにしたら、自分を責めることもなくなる。「責める」というやり方を手放すので、それは相手にも自分にも同時に起きてくる。相手を責めないと自分がラクだ。
挨拶はしてもしなくても良い。自分も挨拶する時もあればしなくてもOK。
そして、その時に自分の気持ちが良くなる方を選べばいいということ。これまでは、絶対に挨拶した方がいいと決めつけて、イヤな感じの人にも自分から感じよく、いつも挨拶していた。そうすることが絶対に良いことだから、良いことを実行する素晴らしい人であるために挨拶していたのだ。
自分は自分のままで良く、相手も相手のままで良い。それってラク~。
どっちでも良いよ。もちろん挨拶はした方が気持ちいいけど、しなくてもしてもどちらでもOKなんだ。
自分が気持ち良く過ごせる方を選んでいいんだ。それって氣楽!感謝。
